早いもので、東日本大震災から15年の月日が流れました。
私は内陸側に住んでいたため、自宅は津波の被害こそ免れましたが、電気・水道・ガスといったライフラインはすべて停止しました。
15年という節目に際し、あらためて当時を振り返りながら、あの時に本当に重宝した物、そしてなぜそれが必要だったのかを記しておきたいと思います。
ラジオは貴重な情報源
まず、ライフラインがすべて遮断されたあの混乱の中で、情報源の中心はラジオでした。
電気が止まり、テレビもネットも繋がらない。
当初、被災地では「震源」も「震度」も、何が起きているのかすら把握できませんでした。
当日は勤務中でしたが、市内は混乱に包まれたまま、眼前がホワイトアウトするほどの猛吹雪。そして「あの」大轟音が鳴り響く……。
(それが「津波の音」だったと知るのは、後になってからです)
充電ができない状況では、携帯電話(当時はまだ多くの人がガラケー)はバッテリーが切れたらそれで終わりです。
その貴重な電池残量は、ほとんどが「安否確認」に使われました。ガラケーで情報収集をする余裕など、正直ほとんどありませんでした。
この時期になると、毎年のように「当時Twitterがあって本当に助かった」という投稿をXで見かけます。
もちろん、そういうケースも実際にあったとは思いますが、少なくとも自分の当時の体験とは随分違うなぁという印象です。
そもそもネットはほとんど繋がらず、通信はかなり不安定だったし、繰り返しになりますが、何より貴重なバッテリーをネット閲覧に使う余裕なんて本当にありませんでした。
そんな中で大活躍したのがラジオです。
最初は「どこで何が起きたのか」。
状況が少しずつ見えてくると、今度は「避難所はどこなのか」。そしてその後は、「炊き出し」や「給水」はどこで行われているのか。
そうした情報の多くは、ラジオと、そして後述する「町の人との会話」から得ていました。
あの頃、町中ですれ違う人の多くがラジオを持っていたことを、今でもよく覚えています。あらゆる情報はラジオから集めました。
今でも、防災グッズとして必ず用意しておきたい物の一つだと思っています。
懐中電灯
電気がないため、日没以降は本当に真っ暗になります。
当然ながら街灯も消え、家の中も外も、明かりはほとんどありません。どこへ行くにも、何をするにも、とにかく「光」が必要になります。
そんな時に役立ったのが懐中電灯でした。これは今でも電池入りで常備しています。
ただし、被災当時、夜は基本的に「寝る」ことに徹していました。
暗闇の中でできることは限られますし、何が起きるかわからない状況では、体力を温存することも大事です。
後述しますが、日中は給水に行ったり、町中で情報収集をしたりと、やることが多いのです。
だからこそ、寝られる時には寝る。
これも当時の鉄則でした。
水用ポリタンク + 台車(キャリーカート)
一番「持っていてよかった」と思ったのは、この組み合わせかもしれません。
災害時、電気は比較的早く、数日で復旧しましたが、ガス・水道は長引きます。
私の地域でも、断水はかなり長期間続きました。
そして、その時に一番ありがたみを感じたのが「水」です。
普段の生活の中で、日本では水をほとんど意識することなく使っています。しかし実際には、私たちは想像以上に多くの水を消費しているのだと、痛感しました。
飲み水はもちろん、生活用水もかなりの量が必要です。
当時、水は、善意でタンクから分けてくれた地元のスーパーや、全国から応援に来てくれた給水車からポリタンクに補充して自宅に持ち帰っていました。
しかしこれが、とにかく重い。。
そこで大活躍したのが台車(キャリーカート)です。台車がなかったら、本当に大変だったと思います。
繰り返しになりますが、水道やガスの復旧は時間がかかります。地域によっては、そもそも復旧自体ができない場合もあります。
給水のための水運びは、数日では終わりません。長期間、何度も続く作業になります。
自宅にポリタンクはありますか?
それを運ぶ台車はありますか?
水を入れる容器がなく、小さなペットボトルに入れて何度も往復している方を当時見かけました。本当に大変そうでしたよ。
ご飯茶碗にのせるラップ
食料の確保にも苦労します。スーパーやコンビニは当然すべて閉まっています。
当時、家にあったのは米とお吸い物、あとはちょっとしたおかずくらい。しばらくは、カセットコンロでお湯を沸かして炊飯したり、ウィンナーを焼いたりして凌いでいました。
非常事態ということを身体も理解できるのか、不思議なことにそれで全然満腹でしたね。お腹が空いたとは思わなかったな。
しかしそこでもう一つ困るのが、食事後の洗い物。
水が出ない状況では、食器を洗うことも簡単ではありません。貴重な水には優先順位があるため、食器洗いはどうしても後回しになります。
そんな時に役立ったのがラップです。
ご飯茶碗にラップを敷き、その上にご飯をよそう。食べ終わったらラップを捨てるだけ。
茶碗は汚れないので、洗う必要がありません。
ちょっとした工夫ですが、これにもずいぶん助けられました。
町の人とのコミュニケーション
震災の中で一番強く感じたのは、人とのコミュニケーションでした。
あの時ほど、町の人と会話をしたことはありません。
「あれ、うちの町ってこんなに人がいたんだw」
そんなふうに、苦笑いした記憶があります。
普段、自分の家を出て、どれくらいの人とすれ違いますか? せいぜい数人程度ではないでしょうか。
しかしあの時は違いました。
ライフラインが止まり、誰もが「情報」を求めていました。
日中は多くの人が外に出て、町のあちこちを歩き、すれ違う人同士で自然と情報交換が始まります。
「あっちで炊き出しをやっている」
「こっちに給水車が来ている」
そうやって、お互い見知らぬ者同士、情報を伝え合いながら助け合いました。
人は一人では生きていけない。
そんな当たり前のことを、強く実感した瞬間でした。
月日が流れ、また日常に慣れていく
水が出ること。
電気が使えること。
あの時、どれほどありがたいことか身に沁みてわかったはずでしたが、ライフラインが少しずつ復旧し、生活が元に戻っていくにつれて、その感覚もあっという間に薄れていきます。
15年という節目を迎え、震災のニュースを目にする機会も増えました。それを見ながら、あらためて当時のことを思い出しています。
今回書いたようなものは、どれも特別な物ではありません。
ラジオ、懐中電灯、ポリタンク、台車、ラップ。
どれも普段の生活の中にある、ありふれた物ばかりです。
けれど、いざという時には、そうした「当たり前の物」が大きな助けになります。
そしてもう一つ大きかったのが、人とのつながりです。
とにかく町の人と情報を共有し、助け合うことで、あの状況を何とか乗り越えることができました。
震災から15年。
あの時の経験を忘れないこと。そして、備えておくこと。
東北人として、この節目のタイミングで、もう一度身を引き締めなければならないと感じました。
【了】









